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海形将志

Author:海形将志
40代、独身、東京在住。仕事は翻訳業。米留学経験有り。

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ポジティブ・コーチングを考える小説 第7章
元近鉄バッファローズのコーチで97年NYメッツでもコーチとして活躍した立花龍司氏の著作「ポジティブ・コーチング」から発想を得た短編小説

まずは第1章から第6章をお読み下さい。


 山賀真太郎はその日、厨房で、後片付けをさせられていた。相変わらずの後片付けだ。鍋を洗ったり、床をモップで拭いたり、ゴミを捨てたりと。板前らしきことは全くなく相変わらずの雑用ばかりだ。
 今日は心なしか疲れていた。朝から食事を抜かれていたからだ。理由は、朝寝坊をしてしまい、厨房に来るのが二分遅れてしまったからだ。このような食事抜きの罰は、週に一度の割合で受けている。
 ガシャーン、と器が割れたような大きな音がした。真太郎は、音のしたところへ向かった。それは、大将の部屋だった。そこに二人の先輩がいた。
 見ると、床に陶器の器が砕け散っていた。真太郎は、砕け散った器に見覚えがあった。大将が重宝している瀬戸焼きの茶碗だ。何百万円もすると聞いたことがある。
「どうしたんです?」
「何でもねえよ。つい珍しくて見てたら、手が滑ってしまったんだ」
 二人の先輩は、うろたえていた。大将に知られれば殺されてしまう。その時、どんどんという力強い足音が近付いてきた。その足音とは、まさに大将の足音だった。二人の先輩は顔が真っ青になっていた。
「何やっているんだ、おまえら?」
 大将が部屋に入ってきた。即座に床に砕け散った瀬戸焼きの破片を見付けた。
「おまえらが、やったのか!」
 大将が、怒鳴り声を上げた。
「こいつがやったんです。真太郎がやったんです。こいつが茶碗を落とした音を聞いて俺たち何だろうと思いここに来たんです」
「何だと!」
 大将が真太郎をにらむ。
「違います。やっていません。おれはやっていません。割れる音がしてここに来たら・・・」
 大将が、真太郎の衿をつかみ引っ張った。どんどん引っ張られ、厨房まで連れていかれた。大将は相撲取りのように大柄で力が強く真太郎の体など楽々と引きずってしまう
 真太郎は、濡れ衣だと叫び続けたが、大将は聞く耳を持っていない。
 バシ、と真太郎は殴り飛ばされた。次に大将は、水道の蛇口につながったホースを手に取り、蛇口を回すと水を真太郎に吹きかけた。真太郎は、全身水びだしになった。
「このウスナロチビ! おまえなど出てけ!何も働けず役立たずのくせに、今までおいてもらったことだけでも感謝しろ。出ていって、死んでしまえ」
 大将が、そう言って怒鳴る傍ら、先輩たちが嘲笑う表情をして真太郎を見ている。
 大将は、自分よりもあんな奴らの言うことを信じている。そして、自分のことをずっとゴミのようにしか見ていなかった。今までずっと大将の店で辛抱してきたのは何だったのか! 真太郎は目から涙が溢れた。
 真太郎は、ふとそばに細長い刺身包丁があるのに気付いた。真太郎は、我を忘れた。
 包丁をさっと手に取ると、大将に向かって突進した。


『ロジャー、やっとコントロールが前のようになってきたな。来週には登板できるかもしれないぞ。監督に俺から話をしておく』
 そう言うと身長二メートルで金髪の大男は大きく笑えみ中田俊秀に抱きついた。
『コーチ、ありがとう。今度の試合、絶対チームを勝たしてみせるよ』
と叫んで言った。硬い筋肉に締め付けられながらも、俊英は肌で喜びを分かち合った。
 よほど嬉しかったらしい。ロジャーという大男はピッチャーで、もう三週間以上試合に登板してなかったが、今やっとのことで復帰のチャンスが巡ってきたのだ。
 大男は投球は速いのだが、ここ最近、肘を痛め数日ほど欠場。すぐに回復はしたものの、スランプにかかったため投手にとっては肝心な制球力を失ってしまった。肘の回復後も、試合出場を控えさせなければならなかった。
 だが、中田のアドバイスを受けながら、ロジャーは、自らの力で制球の乱れを克服し、やっと試合で使えるまでに回復した。そんな姿を見るのはコーチとしてこのうえない喜びだった。そして、ロジャーは、何を隠そう大リーガーだ。秀俊は、今、アメリカはニューヨークにいた。彼は、ニューヨークに拠点を置く大リーグの名門ニューヨーク・メッツのトレーニング・ジムの中にいた。

 アメリカに来てから三十年近くが経っただろうか。中田俊秀は頭の毛が禿げ出した中年男になっていた。
 新天地アメリカに足を踏んだ最初の頃、まだ十七歳の少年だった。英語もろくに分からず、見るもの聞くものすべてが新しく混乱の日々が続いた。だが、そこはチャンスの国だった。そして、俊秀の大好きな野球の本場の地でもあった。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジョー・ディマジオ、歴史に残る野球の大スターたちを生んだ国だ。それは俊秀に新たなる希望を与えた。俊秀は新しい環境に適応しようと必死になって英語を勉強した。

 腰は回復していたものの、プロ野球選手を目指せるほどの状態には、一生戻らないことは分かっていた。しかし、野球にはずっと関わり続けたかった。その結果、選手トレーニングのコーチとなる道を選んだのだ。俊秀は、大学に進みプロのコーチ資格を取るべく体育学を学ぶこととなった。
 アメリカは、オリンピックで百単位のメダルを毎回獲得する。テニスやゴルフの国際的大会でも、優勝を何度も勝ち取る名選手を数多く生み出している。世界一のスポーツ大国なのである。それだからこそ、スポーツ選手養成には科学的な思考を持ち、取り組むのである。一人の選手をいかにオリンピックなどの国際的舞台に送り出せるかは指導を行なうコーチの腕にかかっている。名選手が生まれるためには必ずその裏に彼らを指導する名コーチが必要になってくるのである。
 養成法は、理論的かつ合理的でなければならない。コーチは、人間の体の構造、それぞれのスポーツで必要になってくる筋肉や運動などをスポーツ医学という論点で的確に理解してなければいけない。単純にたくさんのつらい運動を辛抱すれば強くなれるというような、単純なものではないのである。
 特に試合前に猛特訓をするなどもっての外だ。前日はコンディションを整えるため軽い運動程度のことしかしない。前日の猛特訓で試合当日にかえって筋肉を痛めてしまうことを防ぐためだ。プロの世界では、そんな考え方が常識だ。
 また、よきコーチになるためには、様々な選手の個性や心理を理解しなければいけないのである。特に性格の理解は大事だ。例えば、選手がとんでもない失敗をして試合に負け落ち込んでいるとき、ガンと叱りつけるのがいいか、励ますのがいいか。それは選手によって、また落ち込んでいるときのタイミングによってやり方は変わってくる。叱りつけられ奮起する選手もいれば、そのことによって意欲をさらに無くして落伍者になってしまうものもいる。「そんなことで意欲を無くしてしまうのならやめちゃえばいい」と片付ける考え方もあるが、どんなに強い選手だって人間である。測り知れないプレッシャーを受け、時と場合によっては、ひどいスランプに落ちいってしまうことだってある。人間としてそのことを理解してやらないと、後には続かないのである。
 そして、よきコーチは、必要以上に選手自身のトレーニング法に干渉しないものである。ある程度基本をマスターすれば、それぞれ自分にあったトレーニング法を編み出せるようになる。プロの選手とは、自分の体のことをよく把握できているからこそプロといえるのだ。そうなればある程度自由にさせる。
 また、野球はチームワークだからこそ、すべての選手が同じカリキュラムをこなすこ必要があるとおもわれがちだが、そんなことをしたら、それぞれ性質の違う選手の能力差を無視したやり方になるため、合わなかった選手が無理なトレーニングで体をダメにしてしまうことになる。そのうえ、そんな選手に対し「みんなと同じ特訓についていけないようならば一人前にはなれないぞ」という言葉を浴びせるのは教える側の身勝手さとしかいいようがない。
 アメリカでは「みんなと同じことしかできない奴こそ一人前にはなれない」と考えられている。
 
 大学を出た後、俊秀は、高校、大学などの様々なスポーツのトレーニング指導を職業とした。野球に限らず、バスケットボール、フットボール、テニス、スキーなど。様々なスポーツを知ることにより、それぞれのスポーツの特徴を知り、そのことが自分が特化したい野球の指導に大いに役立つことを知った。幅広く知らなければ特化もできないということだ。気が付くとトレーナーとしての人生を歩みだして十年以上が経ち、希望していた大リーグは、ニューヨーク・メッツのトレーニング・コーチの地位に就いたのである。

第8章へつづく
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テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学

スポーツ | 21:01:50 | Trackback(0) | Comments(0)
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